DIARY 2021年


1月1日 SIDE-A 2021年に寄せて

2021年に寄せて
 この世界に私を愛している人がいるとするならばこの人だけだろうという祖母、利子が他界したと伝え聞いたので、寒中見舞いという形で失礼します。
 2020年があんな年になると誰が想像したでしょうか。私の2020年は生まれ変わりの年、体を動かして養生し、体重を30kg落として自己肯定感を持ち、人生をやり直すつもりでした。

しかしコロナ禍と気候変動で持病を酷く悪化させました。48年の人生、21年の闘病生活で最も苦しい一年でした。激しい不安感と絶望の中で布団の中に硬直し、小指の先を動かす気力さえありませんでした。家族・親族に絶縁され知人は全員去り、私には誰もいない、誰もいないのです。
 私はいま、社会に貢献できるなにごとも持たないので、消えても誰も困らないし誰も悲しみません。それでも生きたい。願わくばそばに猫と音楽を。根拠のある自己肯定感はいりません。根拠など簡単に消え去ってしまう。生き残るために根拠のない自己肯定感が欲しいです。
 みなさんもいろいろ事情がおありだと思います。2021年に希望を描くのは難しいですが、取り敢えず生きてるだけで偉い。

2021年に寄せて (おがわり)
 たくさんの方々に同じ文面の寒中見舞いをお送りしたのですが、印刷・投函を発注してからこれでは意味が伝わらないと気づき、苦肉の策として補足のおかわりをお送りします。

補足1つ目。私は2000年から鬱病を患っています。「鬱なんて甘え」との叱責を受けることもあります。鬱病は脳という臓器の疾患で、心臓や肝臓の疾患と同じように「根性」では治りません。
 補足2つ目。私は両親をとても早くに亡くしました。そして十数年前に戸籍上の弟が、私が当時交際していた女性を気に入らず、女性を精神的に追い詰めた上で私とも縁を切りました。弟は法であり事実上の家長なので、親族一同とも縁が切れたことになります。補足3つ目。私は高機能広汎性発達障害で、人との距離の取り方をしばしば誤り、友達が1人もいません。

マザー・テレサは「最もひどい貧困とは、孤独であり、愛されていないという思いなのです」と仰いました。殆どの鬱病闘病記には「家族の理解があって」「仲間の支えを受けて」克服したとあります。孤独の無力さに打ちひしがれています。
 それでも今年に淡い期待を抱いて生き延びます。取り敢えず痩せてモテモテになります。みなさんもどうか生き延びてください。2021年が愛と平和に包まれますように。新しい音楽がもう鳴り響いてますよ!

SIDE-Bに続く。

1月1日 SIDE-B CHECK 1,2

たまにでもこのサイトを開いてくれている方がどれくらいいらっしゃるだろうか。2020年5月18日を最後に、このサイトは更新が途絶えていた。
 SIDE-Aは2021年1月1日に皆さんの元に届いただろう寒中見舞いだ。正月のめでたさを吹き飛ばす陰鬱な内容で、本当に申し訳なく思っている。しかも1通目を投函してから補足の2通目を書いて出す異常さ。おおよそこんな日々を送っていた。

ステイホーム (もはや懐かしい言葉だ) の間にすっかり引きこもりが身についてしまい、解除されても動き出すことができなかった。社会が動き出す気配の中で取り残された思いで、鬱病を悪化させて布団の中で硬直してた。
 ステイホーム期間中に、最後のリアルな友達だと思っていたFUJI ROCKの仲間たちにオンライン飲み会を呼びかけた。答えは全員「興味ない」「別にやりたくない」。彼らを友達だと思っていたのは僕だけだった。みっともないね。鼻くそダサいわ。

そんな時に老猫メイが押し入れに籠もるようになった。自分がどうなっても同居猫の健康と幸福は守らなくちゃいけない。必死で動物病院に連れて行った。診断結果は椎間板ヘルニアで、痛みのために動きたくない、特に排泄と毛繕いに支障が出ていた。その日から毎日投薬、たまに通院の日々が続いた。自分の持病も7つあって、とにかく病院に行くか布団の中にいるかの日々だった。
 初夏にカウンセリングがオンラインで復帰したものの、あまりにも声を出してないんで毎回セッションが終わると咳が止まらない。

大晦日のタイムラインには、みなさんの一年を締める立派なご挨拶が並んだ。僕には2020年を生きた実感がない。ダイアモンド・プリンセス号のクラスターも志村けんさんが亡くなったのも同じ年だなんて実感がない。「みなさまに感謝です」とも「来年も頑張ります」ともとても言えない。ただ終活に向けて淡々と生き延びるのみ。
 「無」だったっていう意味で、2011年、1995年と並んで自分の中で大きな区切りになる年だ。その元凶である新型コロナ感染症があと何年続くかもわからない。ただ48年生きてきて、2020年が一番辛かった。生き抜いただけで偉い!
 その中でもずっと推してたのんちゃん、今川宇宙さん、中嶋春陽さん、miyuちゃんは相変わらず素敵だった。新たにゆーたん、坂本櫻さん、苺谷ことりさん、なまはむこさんという素敵な女性たちと知り合った。みんな僕にとってのミューズです。

大晦日の僕の夕食はからあげクン、味付け卵、ローソンのサラダ、明星中華そば (年越しそば相当) 。ごちそうの写真を片目に年越しそば代わりのカップラーメンまるごと布団にぶちまけて火傷した。なんと惨めな幕切れだろうか。
 布団は濡らしたバスタオルで拭いて、ビニールを敷いて使用した。いま干してるけど廃棄だな。この件に関しては2020年の厄落としと解釈する。坂本櫻さんが年越しの配信で「皆さんに魔法をかけましたから、申し訳ないけど新年はいいことしか起きない」って笑った。あの素敵な笑顔を見ると、ほんとにそう思える。

そしてこれは大学生の頃くらいから兆候はあったんだけど、ちょっとした運動で息切れするようになった。階段を1階あがれば2-3分、靴を履くために屈むだけでも息が切れる。極度の運動不足だったこと、それによって体重が9kg増えたことが原因だと思ってた。
 内科に相談したら、呼吸器系も循環器系も問題はない、精神科の範疇ではないかと。精神科は、いやうちではない、睡眠障害じゃないかと。

かくして睡眠外来のある呼吸器科で検査を受けたところ、睡眠時無呼吸症候群の重症中の重症であることがわかった。最大の無呼吸状態が49秒、血中酸素飽和度は100%が望ましくて96%を下回ると治療が必要、90%を下回ることがまずないところを77%。
 症状や合併症のリスクの高い病名を挙げると、鬱病・糖尿病・高血圧・高脂血症・肥満といった、身に覚えのある病名が並ぶ。

楽観的に考えれば、睡眠時無呼吸症候群さえ克服すればほかの病状も改善するかもしれない。いま、持続陽圧呼吸療法 (CPAP) という睡眠時に鼻につけたマスクに加圧した空気を送り込む治療を受けてる。
 初日から著しく改善したのが鬱症状だ。ずっと、昼頃に起きて深い鬱に見舞われて、5時間くらい動けなかった。外も暗くなってきた頃にようやくよろよろと起き出してた。CPAPを始めてからパカーンと起きれるようになった。気持ちも楽になった。

いま希望の種はこのCPAP、そしてSIDE-Aに書いたように唯一の理解者だった祖母が亡くなったと伝え聞いて、少しずつ外出する練習を始めてる。
 今年の抱負は「痩せてモテモテ」です。ウハウハをつけてもいい。痩せてモテモテのウハウハです。自己肯定感を高めるためにも持病の改善的にも痩せたい。で、独りで生きるのはもうわかったから、いい加減に共に歩むパートナーが欲しい。さらに言うなれば何年も放置してる創作活動を再開したいし10兆円欲しいし1日48時間欲しい。

痩せる努力をしないで痩せるためにEMSの腹筋運動と食事に気をつけてる。この日記もちゃんと書く。っていうのは今日から書くんじゃなくて、中断した5月18日に遡って書くって意味です。記録はぜんぶ残ってる。
 で、自分の音楽作りたい。プレイリストやMix CDも作りたい。積読本や積聴音源も消化したい。楽器もやる。本気です。それもうモテるしかないよね。ごめんなさいね。

3月21日 「A LONG VACATION」とあーたくし

1998年から続いていたこの日記、パンデミックの中で壮絶な孤独に直面して、去年の5月18日から書けないままでいる。

今日、3月21日に、大滝詠一さんの名盤「A LONG VACATION」の40周年VOXがリリースされて、Niagaraレーベルの音源がサブスクリプションで解禁される。
 それを記念して#ロンバケサブスク解禁記念レビューという企画に参加した。「A LONG VACATIONとあーたくし」。本当に久しぶりのディスクレビュー (っぽい個人的な思い出話) だ。

これを期にディスクレビューを再開する気があるし、滞ってた日記もちゃんと穴埋めをするつもりでいる。
 誰かがこんなことを言っていた。表現することを辞めてしまった人は、「筆を折る」なんて強い決意で辞めたわけではない。「明日やろう」を何日も何ヶ月も何年も何十年も続けてるだけだって。その通りだよなと思う。

キャプテン! 自分まだ寝れます! 眠らせてください!

3月30日 五十に手が届く寂しいおじさんに

誕生日を迎えた。このサイトを公開したのが1998年の誕生日なんで、23年が経った。
 とはいえ去年の5月からほぼ廃墟状態、日々のメモは残してるものの、メモだけで膨大な量に膨れ上がってどうすんの、と。普通の人は空白期間をなかったことにして、今日から更新を始めるんだろう。それができないのが発達障害の潔癖症なところで、我ながらめんどくせえな! 果てしなくめんどくせえ。

まさか自分がアイドルオタクになって、アイドルさん3人からおめでとうを言ってもらえるようになるとは思わなかった。メッセージはもっと頂いた。執拗な「もうすぐ誕生日アピール」が功を奏したと言えよう。ありがとうございました。
 そもそも、子供の頃は自分が49歳になるなんて夢にも思わなかったし、49歳になってもおにゃのこが大好きなんてもっと思わなかった。抱負は「生き延びる」。

49歳のヤバさ

四十一才の春だから
元祖天才バカボンの
パパだから
冷たい眼で見ないで


ずっと年下

月にでも行ってみたい
そんな気がする四十代
できれば何にもしたくない
金さえあればの四十代


ギリ

五十に手が届く
寂しいおじさんに
夢を抱かせて
ハンバーグステーキおごるから


それな

5月20日 嫌われっ子

現代ビジネスの記事「生きづらさの原因は「発達障害」だった...自閉スペクトラム症の50歳男性が人生を肯定するまで
 「いじめられるのを超え、同級生、教師から徹底的に存在を無視され、ないものにされる。いじめられっ子ならぬ『嫌われっ子』だった

僕はいまでもそうだ。自分の人生を肯定することなんてとてもできない。鬱病も辛いけど発達障害も相当に辛い。厳密には僕は発達障害という「診断」を貰ってない。12年のつきあいになる軽薄な主治医からなんの診断も貰ったことがない。「僕は発達障害なのでしょうか」と聞いて、「広汎性発達障害 (自閉スペクトラム) かもね」って言われただけ。
 それが45歳くらいの頃だったか。それまでの人生なんだったのか、そしてこれは資質なので改善の余地がない。

どこに行っても存在を徹底的に無視される、「嫌われっ子」49歳。
 Laura Nyroが亡くなったのがいまの僕の歳だった。よく覚えてる。もう大御所中の大御所、歴史上の大人物だった。翻って自分の人生の何事も成し遂げてなさを思う。

最近Spotifyのプレイリストを作ってます。なんのテーマも決めず、有名・無名、国籍問わず好きな曲を100曲リリース順に並べた「anthems 100」。2000年から2020年のJ-POPを選ぶテレビ企画「プロが選ぶ最強のJ-POPベスト30曲+20曲」に触発された「無職が選ぶ最強のJ-POPベスト30曲+20曲」、その洋楽版「無職が選ぶ最強の洋-POPベスト30曲+20曲」。ハッシュタグ企画 #非英語圏オールタイムベストアルバムに連動した「非英語圏オールタイムベストアルバム スキル編」などなど。
 ミュージシャンの入門プレイリストもたくさん作ってます。おおよそ6時間程度でリリース順に代表曲を紹介したChronologicalシリーズと、1時間でわかった気になれるthe young person's guide toシリーズ。Spotifyの私のプロフィールまで。

きのうは新垣結衣さんと星野源さんの結婚の報が流れて大きな話題になった。新垣結衣さんのファンが温かく受け入れたのは、相手がIT社長とかではなく星野源さんだからであり、星野源さんのファンが温かく受け入れたのもまた然り。くだらないの中に愛が、人は笑うように生きる。
 私が星野源さんを初めて観たのは、無名時代のSAKEROCKの一員として友人の結婚式の余興バンドとして出演した時。ほんの数メートルだった。だから私と星野源さんは友達の友達。その後何度かライブを拝見して、細野晴臣さんの中華街ライブでまた数メートルの距離で観た。つまり私と新垣結衣さんの距離もまた実質数メートルと言える。併せて新垣結衣さんの、悪徳事務所レプロからの独立も喝采を浴びた。

NaNoMoRaLというユニットにはまり、おおげさでなく週3回は観に行ってます。NaNoMoRaLを知るきっかけになったグデイというユニットにもはまってる。コロナ禍前にあれほど通っていたシンガーソングライターシーンにはほとんど関心がなくなってしまった。というのは知久寿焼さん、石川浩司さんという奇しくも元たまの2人の、ほんとうに素晴らしい弾き語りのパフォーマンスを観てしまったことも一因する。中途半端なものを観る時間も体力もない。また日本で海外のミュージシャンのライブが観れる日は来るのだろうか。
 コロナ禍の壮絶な孤独と引きこもりで10kg増やした体重を戻しました。あと16kg痩せるべくダイエットに励んでいる。それでやっと標準体重なので。シェイプアップしてからやっと始まる、恋のスタートラインに急がなきゃ。49歳 無職 鬱病 発達障害だけどまだ結婚するつもりでいる。

5月30日 私と音楽(とマンガ)

Ritomoのラジオ番組、「Ritomo 電波上の二点間」で面白い話をしてた。海外のある研究機関の調査によると、平均して男性は14歳、女性は13歳で自分の音楽趣味が決まるんだって。日本で言うなら中学生だ。
 その前の週に、RitomoがInstagramで中学生時代に聴いていた曲のアンケートを取っていた。僕は「風の谷のナウシカ」のサントラと「銀河鉄道の夜」のサントラと、OFF COURSE「緑の日々」を挙げた。

放送を聴いて、自分の音楽遍歴を振り返ってみた。亡父が無線技師でミュージックフリークだったんで、子供の頃、家には父がエアチェックしたラジオから選曲した音楽が流れていたと記憶してる。
 親戚によると、膨大なドーナツ盤のコレクションがあったそうだ。覚えてるのは、100枚程度のLPレコードとオープンリールテープの山。ドーナツ盤は売り払ったんだろう。

話は逸れる。僕はいまでもお気に入りの曲をCDに焼いてジャケットを印刷して、Nito Recordsの名前で人に配ってる。もう30年近い趣味だ。ここ10年くらいは、CDプレイヤーを持ってる人がずいぶん減った。でも名刺代わりとしてフィジカルでプレゼントしたいし、サブスクリプションにある音源は、世界の録音芸術の1%にも満たない。
 でだよ、実家を処分する時に亡父の遺品を整理してたら、Yamashita Recordsのロゴシールを大量に発見した。きっとテープに貼って配ってたんだな。血筋だ。

幼い頃に強く揺さぶられた曲が4曲ある。児童会館の宇宙のジオラマで流れてた、冨田勲さん版の「惑星」の「木星」。小学生時代に母の車のラジオから流れてきたさだまさしさんの「つゆのあとさき」。レンタルスキー屋の有線でかかってたOFF COURSEの「さよなら」。音楽の授業で聴いたベートーベンの「トルコ行進曲」。
 この4曲を聴いた時は雷に打たれたように震えた。いま振り返るに、圧倒的にメロディ志向だったことがわかる。

12歳の時に父が亡くなって、オーディオが自分のものになった。初めて自分で買ったレコードが、前述の「風の谷のナウシカ」のサントラだ。雄大で美しいテーマ曲が聴きたかった。でも久石譲さんは現代音楽畑出身で、そういう意味ではMichael Nymanなんかに近い映画音楽家なわけだ。ナウシカのサントラには、民族音楽的な曲やミニマル・ミュージック的な曲、久石さんの実験的な側面も多分にあった。レコードがそれしかなかったんで、必然的に実験的な曲も何度も聴いて好きになった。
 これが僕の中学生時代の音楽、自分の音楽趣味の根っこなのかも知れない。

ナウシカの次に買ったのが、細野晴臣さんの「銀河鉄道の夜」のサントラ。透明な世界感に惹かれて、細野さんのレコードを何枚か聴いてみたけど、トロピカル三部作の土臭さは当時は受けつけなかった。アルバム「PHILHARMONY」や、収録曲でも特にポップな「Sports Man」は好きだった。
 細野さんに驚愕したのはその4年後のアルバム「omni Sight Seeing」で、特にサブスクリプションにない「Andadura」って曲が好きになった。いまでも細野さんのアルバムで1枚選ぶなら「omni Singht Seeing」だ。

その次がたぶん坂本龍一さんの「オネアミスの翼」のサントラ。サブスクリプションにないのだな。これも実験的な作品で、僕の音楽のふところをだいぶ広げてくれた。坂本さんのベスト盤を買って、ベタに「Merry Christmas Mr.Laurence」や「Ballet Mechanique」を好きになった。細野さん、坂本さんとくればYellow Magic Orchestraだ。クラスメートにベスト盤を借りて期待して聴いたけど、フュージョン臭さがダメだった。いまだに「Rydeen」のよさがまったくわからない。
 その一方で、OFF COURSEやさだまさしさんもまだ聴いてた。なんならいまでも聴いてる。さださんと小田和正さんが共作・共演した最近の名曲「たとえば」は、そんな僕へのプレゼントだ。当時の言葉でいうニューミュージックは、ゴダイゴやチューリップや種ともこさんや谷山浩子さんやKANさんや大江千里さんやPICASSOにも興味があった。

鈴木慶一さんがプロデュースした、わかつきめぐみさんっていう少女マンガ家のイメージ・アルバム「わかつきめぐみの宝船ワールド」を聴いた。ついに慶一さんと邂逅した。慶一さんのバンド、Moonridersを聴いてどっぷりはまった。やっと自分の音楽に出会った感覚があった。自分が音楽好きだと認識したし、公言するようになった。これが高2くらいかな。Ritomoが紹介していた研究結果より数年遅い。
 わかつきさんがコマの外に書いてた作業のBGM、メトロ系と呼ばれたMoonriders人脈のバンド、パール兄弟やPSY-S、Carnation、松尾清憲さん、高野寛さん、Zabadak、Nav Katze、鈴木さえ子さんあたりにずぶずぶはまった。

慶一さんを手掛かりにして、洋楽を聴き始めた。最初に買ったのはXTCの「Skylarking」だと思う。イギリスのギターポップを次々と聴いていった。もうひとつ、学校の帰りに寄り道すれば六本木WAVEがあって、店内に並んでた極めてマニアックに偏った試聴機の影響も大きい。世はワールド・ミュージックブームだった。
 アメリカの音楽はPaul Simonの「Graceland」、ここからアフリカにも目が行く。「Graceland」に参加してたLadysmith Black Mambazoや、Peter Gabrielの「So」に参加してたYoussou N’dourを聴いてみたり。細野さんが監修、選曲した「ETHNIC SOUND SELECTION 地球の声」っていう民族音楽のボックスセットを買ってみたり。この辺までが高校生の頃かな。

The BeatlesTalking HeadsVelvet Undergroundを聴いたのは大学以降だ。大学のあった湘南台に新しいCD屋さんができて、開店の時にデフォルトで置くような名盤が揃ってたのを片っ端から買っていった。徒歩圏の藤沢市総合市民図書館に膨大なCDライブラリーがあって、それも片っ端から聴いていった。
 もうひとつのビッグバンはThe Flipper’s Guitarとの出会い。まだ民間に開放されてなかった黎明期のインターネットで、既に元ネタ探しが始まっていた。渋谷系というより牧村憲一さんのライブラリー、要するにこういう音楽を探して聴いた。リアルタイムなマッドチェスター、古いジャズやソフトロック、The Beach Boys。「Pet Sounds」を理解するのに3年かかったんで、The Beach Boysにどっぷりはまったのは就職してからだった。

#絶対に炎上しそうな音楽についての意見 ってハッシュタグのネタに、「『何でも聴くよ』って言ってるやつほど何も聴いてない」ってツイートがあった。僕は鈴木慶一さんや牧村憲一さんみたいなリスナーの影響が強かったのと、音楽に目覚めた頃にワールド・ミュージックブームがあったんで、人よりは広く聴いてると思う。ロック、ポップス、ブラックミュージックはもちろん、ジャズや現代音楽やヒップホップや映画音楽やアンビエントやテクノや民族音楽や宗教音楽、時代でいうなら世界のどこかで数千年前も歌い継がれた民謡から、今夜初めてかかる最新のクラブミュージックまで聴く。
 クラシックはあんまり聴かない。メタルやハードロックも聴かない。音楽的なアイデアの焦点がわかりにくいのと、イマジネーションより技巧重視でスポーツ的なのが苦手なんだと思う。パンクは好きでよく聴く。

音楽への目覚めを振り返るに、「風の谷のナウシカ」→「銀河鉄道の夜」→「オネアミスの翼」→わかつきめぐみさんが出てくる。つまり、もともとアニメ・マンガオタクだったのが、音楽オタクにシフトしたわけだ。
 子供の頃、藤子アニメや世界名作劇場が好きだった。我が家にビデオデッキがやってきて、たまたま亡父が試し撮りしたのが「未来少年コナン劇場版」。宮崎駿さんが初監督したテレビシリーズ全26話をぶった斬って、ぜんぜん違うストーリーに仕立て上げた問題作だ。それでも面白かった。その数年後に本来の全26話の再放送を観て、胸躍る冒険譚と深い世界観に呆然とした。当時は一連の松本零士作品が大ブームで、そっちは見向きもせずに「コナン」にのめり込む僕を母が心配した。いまはジブリ映画、細田守監督作品、片渕須直監督作品くらいしか観ない。ガンダムもエヴァンゲリオンも通過してない。

マンガはコロコロ→サンデー→スピリッツと小学館に育てられて、SFと恋愛とギャグの間に収まった。手塚治虫先生や藤子F不二雄先生がそうだし、もう少し若いと竹宮惠子先生、萩尾望都先生、さらに高橋留美子先生、安彦良和先生、吾妻ひでお先生、ゆうきまさみ先生、とり・みき先生、浦沢直樹先生、山本直樹先生、わかつきめぐみ先生、谷川史子先生、岡崎京子先生、羽海野チカ先生、こうの史代先生、安野モヨコ先生、あずまきよひこ先生、中村光先生、東村アキコ先生。「鬼滅の刃」は珍しくジャンプのマンガで好きになった。音楽が間接的に亡父の影響だとすると、マンガは亡母の影響かも知れない
 多摩市に引っ越して12年、近所に本屋やコンビニがなくてマンガ雑誌を買う習慣が消えた。話題作は単行本を買ってるけど、積ん読してることが多い。

以上、誰にも聞かれてない音楽への目覚めとその前章のマンガの話でした。

6月3日 アメリカン・ユートピア

David Byrneのアルバム「American Utopia」がほんとうに久しぶりにヒットして、そのツアーは大きな話題になり、ブロードウェイミュージカルになり、スパイク・リー監督によって映画「アメリカン・ユートピア」になった。ツアーもミュージカルも猛烈に観たかったけど日本公演はなし、待ち望んだ映画を観てきた。
 そこいらのニワカと一緒にしないで欲しい。僕はDavid ByrneのソロアルバムがBillboardの100位に入らなかった時代も、ちょっとしたゲスト参加作品も、彼の選曲するMixcloudも丁寧に追ってきたアツいファンなので。映画の上映に併せて、DOMMUNEで特集番組が配信された。タイムラインの感想は「Talking Heads懐かしい」。その違和感をツイートしたら、宇川直宏氏からだいぶ失礼なレスがきた。

実は映画を観る前は、少し不安があったんだ。僕はあまりにも期待しすぎてないかと。いやいや映画は想像を遥かに凌駕してきた。人が興味を持つのはアンプやケーブルじゃない、人だろ、っていう発想で、ステージ上にはなにもなし。マーチングバンドみたいに全員が楽器を背負って、コンテンポラリーダンスのようにダイナミックに歌い踊る。David Byrneの声もギターもまるで衰えてない。それだけでもサイコーだ。
 音楽やダンスとシームレスにByrneは語る。脳について、人について、自分について、繋がりについて、社会について、政治について、未来の人類に受け継ぐものについて。そのメッセージは決して押しつけがましくなく、愛と笑いと希望を持って伝わってきた。

Byrne自身がスコットランドからの移民で、全員が移民のバンドをトランプ政権の時代に提示する意味。惜しむらくはアジア、アフリカ系のメンバーがいなかったこと。同時期にツイッターで流行った #非英語圏オールタイムベストアルバム タグでも、ヨーロッパ、中南米が中心で、アジア、アフリカ系はざっくりスルーされてた。アジア系へのヘイトが広がっている今だったら編成がまた違ったかも知れない。
 それはともかく。あくまで音楽とダンスでこれだけのメッセージと興奮を伝えることができるんだって事実に、僕は打ちのめされた。芸術文化を愛してきた自分が肯定された気持ちにさえなった。すべての芸術文化を愛する人たち、あるいは、むしろそれを必要と感じない人たちが、人生に一度(Once in a Lifetime)は観なくてはいけない映画だ。そして単なるライブドキュメントじゃなく、確かにスパイク・リーの映画だった。

つまり。観てください。大急ぎで。

7月19日 スポーツマンシップに乗って行ってみたいなよその国

タイムラインを、そしておそらく世界のニュースを駆け巡ってる話題がある。小山田圭吾氏の過去の虐め問題だ。なにをいまさらと、周知の事実でしょうと、でもこれがなかなか難しい。きっかけは東京オリンピック。

そもそも買収して勝ち取ったと言われる東京オリンピック。「スポーツに最適な気候」であり原発事故は「アンダーコントロール」であり、「お・も・て・な・し」と手を合わせるステレオタイプな日本人像の嘘で招いた東京オリンピック。

誘致した猪瀬直樹氏がバッグに札束を入れられなくて辞任した東京オリンピック。会場のひとつである東京湾が大腸菌で汚染されて臭くて泳げない東京オリンピック。エンブレムが盗作でコンペしなおした東京オリンピック。競技場も予算の問題でコンペしなおした東京オリンピック。新しい競技場には聖火台のスペースがなかった東京オリンピック。さらに莫大な費用が発生したものの誰が背負うのかわからない東京オリンピック。経理部長が自殺した東京オリンピック。たぶん多額の税金が投入される東京オリンピック。感染症で延期された東京オリンピック。去年より遥かに感染拡大してるのになぜかやるらしい東京オリンピック。選手村の感染状況は非公開の東京オリンピック。医者も医療従事者も弁護士も通訳もボランティアもノーギャラの東京オリンピック。電通とパソナと政治家だけがボロ儲けする東京オリンピック。観客は学徒動員で飲み物はコカ・コーラ社限定の東京オリンピック。関係者だけアルコール飲んでいい東京オリンピック。聖火リレーがアドトラック行列みたいな東京オリンピック。森喜朗委員会長が女性蔑視発言で退任した東京オリンピック。演出陣が容姿を侮辱する演出案で辞任した東京オリンピック。復興五輪の名目からコロナに打ち勝った証に差し替えられたけど打ち勝てないことが明白な東京オリンピック。

結局東京オリンピックの開会式は誰が演出するのかと思ったら、先週になって突然総合演出が小林賢太郎氏、音楽監督が田中知之氏、作曲家のひとりが小山田圭吾氏であることが発表された。僕は小林氏、田中氏、小山田氏のファンだけど、ニュースを聞いて嬉しいとも悲しいとも事件だとも思わなかった。

問題になったのは1995年のQuick Japan誌に掲載された、小山田氏の虐めに関するインタビューだ。このインタビューによると、小山田氏は傷害を持つ同級生を裸にしてダンボールに閉じ込めて「お母さーん!」と泣き叫ぶ声を聞いて嘲笑ったり、やはり傷害を持つ同級生に汚物...もう書きたくなくなった。完璧なサイコパスだ。彼は同様の発言を別のいくつかの雑誌でもしていた。

僕は猛烈な虐められっ子だった。それは発達障害で人付き合いが非常に下手だったり、極端な早生まれでどんくさかったことが理由かも知れない。なんならいまでも家族や親族に絶縁されてるし、学生時代の知人から総スカン食らってる。もちろん僕が受けた虐めは、小山田氏が犯した虐めには程遠い。

それでも人格形成期に虐められた経験は人生を丸ごと狂わせたと思う。当時の「教育」もそうだ。もう不帰の客である小学校の担任教師には、墓をかちわってやりたいくらいの私怨がある。虐めを受けた傷は50を間近にしたいまでもトラウマとして残り、生まれてこなければよかったという想いを常に通底に抱えて生きている。Facebookに一瞬だけ参加した時の反応を見るに、虐めた側はまるでなにもなかったかのようだった。

「虐め」という言い方はやめた方がいい。「ヤンチャ」はもってのほかだ。暴行、脅迫、傷害、窃盗、虐待、名誉棄損、性犯罪...人間の尊厳に関わる問題だ。これらの犯罪を矮小化するのが「虐め」や「ヤンチャ」という言葉だ。「虐められる側にも問題がある」という詭弁もいまだにまかり通っている。

もうひとつ、表現を鑑賞するにおいて、表現物と表現者の人格はわけて捉えるのがマナーとされている。いかに人格に問題があっても作品が良ければそんなことは関係ないと。僕は精神的に幼稚なのでそれができない。例えば日本の音楽の世界では、小西康陽氏や菊地成孔氏や七尾旅人氏やテイ・トウワ氏やトータス松本氏や辻林美穂氏や佐藤優介氏の言動に納得がいかず、かつては好きだったその作品を愛せずにいる。

実は3年前にTwitterとInstagramで極めて執拗な誹謗中傷と殺害予告を受けて、いまも裁判中だ。特定された犯人は、僕の小西康陽評が気に入らずに犯行に及んだと言った。それで小西を愛せよったって無理な話だろ。

では小山田氏はどうか。僕はQuick Japanの例の記事を読んでドン引きしたし激しく軽蔑した。でもなぜか彼の音楽を聴くことをやめなかった。その理由は考える余地がありそうだ。つまりすべてのアルバムとほとんどのEPやシングルをアナログとCDの両方で所有し、行ける限りのライブを観に行ってる。最新アルバム「Mellow Waves」のライブには3回も行った。大ファンじゃないか。

彼がオリンピックの音楽を担当することはオリンピック憲章に反する、といった炎上が始まった時も、かくも汚れきったオリンピックに憲章もなにもあったものかよ、と思ったものだ。

やはり発達障害で極端な早生まれだったことも理由のひとつだろう、僕は運動が非常に苦手なのだ。子供の頃にスポーツマンや教師から受けた言葉の暴力や殴る蹴るの暴行で、彼らの汚らしさに辟易していまでもスポーツを心の底から憎んでいる。小山田氏くらい汚れた人間が適任じゃないかと皮肉も言いたくなる。

ところが。彼を軽率に擁護する人々が出てきた。「いままで罪を犯したことがないものだけこの女に石を投げなさい」なんだけど、「いままで核ミサイルのボタンを押したことがないものだけ...」レベルでもあるよなあとも思う。虐めは絶対悪で、「虐められる側にも問題」なんてない。鬼畜系サブカルという文化(文化?)があり、昔は許されたなんて言い訳も通用しない。そこは咎められてしかるべきだ。

小山田氏はあのインタビュー記事から26年、初めて謝罪コメントを出した。もちろん謝ったからといって許す必要はない。小山田氏が心から反省していたとしてもそれは小山田氏の自己都合で、被害者の傷とはなんの関わりもないからだ。

様子を見ていたら、こんどは擁護する人々を糾弾する人々が出てきた。そして擁護する人々を糾弾する人々を糾弾する人々が出てきた。果てしないスパイラルだ。おいおい、問題の出どころと同じ罪を我々も犯してるんじゃないの。この問題についてバランスを取るのは極めて困難だ。

落とし所はどこだろうか。運動会の音楽なんだから「天国と地獄」にして小山田氏の曲は使わない、というのはどうか。いまさら差し替えが効かないならば、小山田氏の名前を出さないでギャランティをすべて障害者支援に回す。

いやいや、もうほんとうにオリンピック中止しましょうよ。万博の時代が終わったようにオリンピックの時代も終わった。感染症対策がゆるゆるであることが露呈したオリンピックで世界になにが起こるかわからない。ここで中止への大手を打てば、The Monochrome Setを再結成させたとき以来の人類への貢献になるよ。

■ 追記 日記をアップしてTwitterを開いたら小山田氏辞任のニュースが流れてきた。開会式まであと数日、彼の曲に合わせて演出してたわけでもないのかな。小山田氏の虐めは降ってわいたスキャンダルでもなんでもなく周知の事実なんで、任命者やその関係者のリサーチ不足としか考えられない。本来ならその責任が問われるところ。

■ さらに追記 やっぱりCorneliusを起用して同期しない演出は考えにくい。映像や照明や花火やプロジェクションマッピングやドローンのプログラミング、ダンスの振り付けも済んでたんじゃないだろうか。あと4日、ほんとにどうするの。この話題を意図的に避けてるプロも多い。かたや真っ当な議論の前に、小山田氏の恵まれた出自をネタにトンチンカンなルサンチマンを投げてる人も多い。

■ 翌日の追記 町田智浩氏の鬼畜系に関する説明を読んだ。「悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの『ヤレる店』読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど」。

1980年代。軽薄なことが良しとされ真面目なことが悪とされて生きにくかった時代。僕はその発信地と言える学校の隅っこで虐めを受けていた。卒業生の石坂浩二氏が講演に来て、「我が慶應義塾高校にいて童貞のやつはろくなもんにならない」と言って喝采を浴びた。もちろん僕は童貞だった。80年代の文化はたしかにひじょーーーーーーーうに辛かったけどカウンターのあり方が鬼畜系として表出することはもっと辛かった。僕はどっちにも関わらないし支持しない。

8月15日 新型コロナウィルス感染症に罹患しました(治りました)

新型コロナウィルス感染症に罹患した。ほかの方がかかると謝ることではないと思うものだけど、いざ自分がかかると申し訳ない気持ちになる。経緯と思うところを残しておく。僕はいわゆる基礎疾患をいっぱい持った中年だ。コロナにかかったら命の危機がある。我が多摩村はワクチンの接種も遅れていて、1回目の接種が8月末の予定だ。

僕にはまだ死ぬわけにはいかない理由がいくつかある。まず資産のこと。僕は弟に詐欺罪で問える策略で資産を奪われている。両親も祖父母もいないので遺産もまた弟に行く。これは避けなければならない。全額日本赤十字社に寄付するつもりでいる。ということをまだ法的に手続きしてない。

もうひとつ、弟と同じ墓に入るのは嫌なので、自分の墓を買いたいこと。僕はいままでに一緒に暮らした動物たちのお骨をぜんぶ持ってる。いまは動物のお骨と入れる墓がある。そして僕の唯一の家族である猫の引き取り手が決まっていないこと。

なにより僕は「ビビり」だ。コロナには人一倍気をつけていたつもりだった。どこで貰ってきたか想像するに、ライブ会場か映画館か劇場だ。気をつけていてもそういうところに出入りしてたのは、殿様扱いのスポーツ業界と違って、文化・芸術は愛好家が支えるしかないのが日本の現状だから。

あるいは公共交通機関かも知れない。オリンピックを強行した小池百合子はラッシュゼロを公約のひとつに挙げていた。誰が騙されてかくも高得票数で当選したのか。東京が感染爆発しても、彼女は国政に打って出るので知ったことではない。

日本政府にも給付金を出してロックダウンする気はない。とにかく弱者に金をかける発想がない。菅義偉は、世界にロックダウンに成功した国はないと言った。台湾やニュージーランドやオーストラリアの例を知らないのか。ここまで感染爆発が進むと、手洗い消毒うがいマスクで防げるもんじゃない。かかるかからないはもはや「運」だと思う。

自覚症状が出たのは2021年7月25日。激しい喉の痛みがあった。風邪だと思った。よく扁桃腺炎を起こす子供だったことを思い出した。翌26日に胃カメラの検査を受けることになっていたので、かかりつけの内科にキャンセルの連絡をした。

26日、ふたたび内科に連絡をして、体調が戻らないために診察を受けたいと申し出た。内科は察知していて、ロビーを通らず別室に案内されて抗原検査を受けた。PCR検査を受けるまでもなく陽性だった。痛み止めを処方され、保健所の指示を待つように言われて帰された。すぐに保健所から電話があって、27日に入院すること、23日以降に僕から感染する可能性があったので行った場所の確認があった。

保健所の対応について、体験者の話を聞くとまちまちだ。我が多摩村の保健所は非常に優秀だった。僕が基礎疾患をいっぱい持った中年の独身男性であることもあって、入院先の手配をすぐにしてくれた。23日、24日に行ったライブハウス、そしてイベント主催者への連絡もぜんぶしてくれた。

27日。多摩南部地域病院に入院。病院の救急車が迎えにくるということだったけど、運転手がナビを使わずに「カンで」来た。炎天下さんざん待たされて、車を止めてるところまで歩かされた。病院についたら車椅子が待ち受けてて、立ち上がってベッドに移れますかっていやいまさっき結構歩いたよ。

レントゲン、血液検査、血糖値測定、血中酸素飽和度検査、血圧検査、体温検査、CTスキャンなどを受けた。CTスキャンを撮影するためにクリーンゾーンを通る時、ベッドの頭の部分にアクリルケースをかぶされた。箱の中身はなんじゃろなになった気分。一番の問題は血中酸素飽和度が非常に低いこと。酸素吸入器をつけられてフルスロットルで酸素が供給された。原因は肺炎だった。味覚や嗅覚に異常はなかった。

自覚的な症状は、体温が40℃前後あって脳が割れるように痛いこと、体中の関節や喉が痛く、咳をすると体中が踊るように痛いこと、汗と咳と鼻水がとめどなく出ること。

この日、都内の感染者が3000人を超えた。それを問われた菅義偉は「お話することがない」と応えた。こいつに殺されるのは癪だから生きようと思った。

8月2日に政府が「自宅療養を基本に体勢整備」の方針を発表した。病床逼迫の吐露だ。オリンピックに4兆円かかったと言われている。公式発表の1兆7000万円を信じたとしても、その予算で300床の病院を300棟建てられたと言われている。

僕は自宅療養の対象になる中等症にあたる。中等症で検索すると朝日新聞の記事に医師の見立てで「肺炎が広がっていて多くの人にとって人生で一番苦しい状態」と出てくる。僕が体験した一番の苦しみは鬱病と孤独だけど、それと比較してもそこそこに苦しかった。

酸素吸入器の扱いは極めて繊細だ。自宅療養で素人が手を出せるものではない。後に酸素ステーションなる構想が発表された。自宅療養にも利権があるわけだ。そもそも急変や合併症の危険性もおおいにある。

さらに8月10日になって、厚労省が自宅療養者の死者数を把握してないことがわかった。「国民の命など知ったことではないので見捨てた」のではないかと、なんとか入院できた者として思う。医療の平等に反する。背筋が凍る思いだ。

高熱による全身の激しい痛みは8日間続いた。8日後に初めて主治医が現れて、治療方針の変更が告げられた。それまでは経過観察、肺炎の治療に焦点をあわせるとのこと。その翌日には熱もさがり、痛みはやわらいだ。3週間弱の入院で主治医と会ったのはこの一度きりだった。

みんな防護服を着ているので、誰が看護師なのか配膳係なのか清掃係なのかわからないまま過ごした。ただ、基本的に病院の方々には非常によくして頂いたと思っている。全身に検査機器がつけられて、数値に異常が出ると夜中にも看護師が飛んでくる。

酸素吸入器フルスロットルの状態はしばらく続いた。吸入量を下げ始めたのは8月6日。主治医にモニタースピーカー越しに「山下さんは生命に危機がある状態だった」と言われた。同じ病室でもだいぶ患者の入れ替わりがあった。自力で退院した人もいれば、それが叶わなかった人もいた。どちらにしろ、コロナ病棟には誰も迎えに来ない。

その後は酸素吸入量を下げながら様子見の日々。この頃には自覚的な辛さはほとんどなくなっていた。酸素吸入で代謝がよくなった体と少ない病院食、つまり空腹との闘いだった。起きていると腹が減るので眠って過ごした。リハビリが始まった。担当は多目的トイレでセックスした人に似ていた。「立ち上がれますか」と聞かれて初めて自分が立ち上がれないほど衰弱してることに気づいた。

14日になって、突然退院が言い渡された。おそらく病床を引き渡す意味が大きかったと思われる。主治医とのモニタースピーカー越しでの会話は相変わらず聞き取れなかったけど、肺炎の症状がまだあること、後遺症になることを告げられたような気がする。

退院を言い渡されてからの手続きがまるでわからなくて非常に困った。このまま病院のパジャマでタクシーに乗って帰っちゃうよ。ナースコールをしても誰もこないまま2時間放置された。その間に主治医が、僕がもともと通っていた内科への経過報告書を書いていたようだ。新型コロナウィルス感染症は指定感染症なので治療費は公費で落ちる。入院中の飲水(なんと有料である)やパジャマのレンタル(これも有料である)などの精算をして開放。

ところで入院中に、老猫たちを馴染みの動物病院に預けていた。入院前はちょっと元気がないくらいだったのに、18歳のメイが食べないのでミルクを与えている、ミルクも飲まなくなってちゅーるを与えている、との報告を受けていた。退院したその足でタクシーで猫を迎えにいった。見るも無惨にやせ細っていた。推定13歳のチャイは元気そうだった。

メイは家に連れ帰ってもしばらくは茫然自失状態だった。少しずつ水を飲んだり、僕の腕の中で落ち着いて安心したように見えた。けどきのう腕の中で寝たはずなのに今朝(15日)起きたら風呂場にうずくまっていた。正直ヤバい状態だ。スポイトでちゅーるを与える日々が始まった。

部屋の前には3週間ぶんの置き配。Amazonの定期おトク便を含む3立方メートルくらいの段ボールの山ができてた。我が団地はこれだけの荷物が放置されてても気にかけてくれない。僕はこの部屋で孤独死することが確定してるので、その時に腐敗する前に発見して欲しさ。

そしてやっぱり常に息苦しい。酸素が足りてない。これ後遺症として一生つきあっていくのかな。

8月20日 メイが虹の橋を渡りました

きのう19日、愛猫のメイが亡くなった。享年18歳。あまりにも人懐っこくて、あまりにも甘えん坊で、あまりにも優しくて、あまりにもお茶目な、人生で最高の友達だった。彼の存在にどれだけ支えられてきたかわからない。新型コロナウィルス感染症で生死の間を彷徨った、僕の身代わりになってくれたのかな。

メイは去年椎間板ヘルニアになって、痛みから毛づくろいと排便に支障が出て、痛み止めと排便を促す薬を与えていた。今年の7月までは元気そうだったんだけど、僕が新型コロナウィルス感染症に罹患して入院することになって馴染みの動物病院に預けたら、環境の変化から食べなくなっちゃった。動物病院はとても信頼できるところで、毎年フジロックに行く期間にも預かって貰ってた。

僕の病院(ややこしいな)から毎日電話をかけて、「今日はちゅーるの総合栄養食タイプを食べました」、「今日はちゅーるを嫌がったので猫用ミルクの総合栄養食タイプを飲ませました」と報告を受けていた。僕の病状も「死」が視野のど真ん中にあったんで、それ以上は動物病院に託すしかなかった。

やっと退院して迎えに行ったらすっかりやせ細ってた。それでも家に帰り着いたら安心した様子で、僕の腕の中ですやすや寝てた。食べ物はちゅーるとミルクをスポイトであげてた。先住猫のネモとクリマロの最期は、抱きしめて思い出話をしてるうちに眠るように息を引き取った。メイが亡くなった日、僕はライブを観に行ってて、帰ってきたら冷たくなっていた。看取れなかったことをとても後悔してる。寂しかっただろうな。最期は苦しんだんだろうか...。

そもそも我が家は動物一家で、物心つく前から動物と暮らしてきた。父方の家は主に猫、最高で18匹の猫と2匹の犬がいた。母方の家は犬。商売をする家だったんで、幼かった母の面倒を見る人がいなくて、母は柴犬にロープで括り付けられて育ったそうだ。亡くなった母が猫アレルギーだったんで、実家には犬がいた。

一人暮らしを始めて動物がいない環境に戸惑ってたところに、知人から望まない子猫が産まれた話を聞いて2匹引き取った。2匹いれば留守の時も寂しくないだろうと考えた。それがネモとクリマロ。ネモは自由気ままで言いたいことを言って、腎臓炎になって19歳で亡くなった。クリマロは我慢するタイプで、ネモが亡くなってから実は俺も調子悪いと言い出して、同じ腎臓炎で1週間後に亡くなった。

メイは亡くなった祖母が、彼女に取っての曾孫、僕にとっての姪が産まれた寒い冬の日に拾ってきた。すぐに病院に連れて行って、名前はなんですかと聞かれて姪が産まれた日だったんでとっさにメイと名付けた。メイって女性名なんだね、男の子です。今夜が山ですと言われて、でもそれからもすくすくと育った。もう1匹いるチャイは、ネモとクリマロが亡くなった時に、前述の動物病院に紹介してもらった。

メイはとにかく人懐っこかった。初対面のお客さんの膝に乗り、時には肩にまで乗った。赤ちゃんの乱暴にも嫌な顔をせずに相手した。ヒトが会話してるとその輪に入ってきた。そして優しかった。僕の心が沈んでるとすぐに察知してほっぺたを舐めて肉球で頭をポンポンして腕の中で一緒に寝てくれた。一般的に猫が好きなもの、マタタビやかつお節やあれやこれにまったく興味を持たなかった。不思議な猫だった。

18年の思い出は多すぎて一人じゃ数え切れない。港区に住んでいた頃はパーティ続きで中心にいつもメイがいた。多摩村に引っ越してきて来客がすっかりいなくなって寂しい思いをしてたかもしれない。そのぶん僕がめいっぱい愛情を注いで甘やかしてきた。チャイとは最初は距離に緊張感があったけど、ドライな関係ながら信頼を築いてた。いまチャイは呆然としてる。

亡くなった祖母が拾った猫なんで、数年ぶりに叔母に電話をした。僕はまったく記憶にはないんだけど、自分の入院の時に病院の方に叔母の電話番号を教えてたみたいで、病院から叔母に電話があって「山下さんは大変危険な状態です、もっと設備の整った病院に転院させたいんですが見つかりません」って連絡をしてたそうだ。自分がそんな状態だったとは知らなかった。だから僕が電話した時にコロナの話かとおもったらメイの話で、だいぶ戸惑ってた。

動物病院にも電話をした。「僕の病気が危険な状況だったんで、メイが身代わりになってくれたんだと思います」って話した。獣医さんは、「実は預かっていた時点でメイちゃんかなりギリギリの状況で、でも最期に山下さんに会いたくて退院するのを待っていたんだと思いますよ」と仰った。ほんとうに優しい子だったから、どっちもきっとそうだ。

しばらくはチャイと二人暮らしだ。また猫を迎え入れたいけど僕はいま49歳で、子猫を譲り受けたらおおよそ69歳まで生きて面倒をみないといけない。数え切れない病気を持った身で、その自信がない。いまはいろんな事実を受け入れられないでいる。