DIARY NEW


12月5日 果てしない孤独は加速する

何度も書いているように、僕は果てしない孤独の中にいる。脳という臓器の病気で、時に奇異な言動が「症状」によるものなのか、「人格」によるものなのか、自分でも判別できない。そして周囲の人々は「人格」によるものと断定して、侮蔑の言葉を吐いて去っていく。かくして私には家族も親族も友人も恋人もまったくいない。
 ヒトは群れをなす生物だ。切実に会話をしたい。僕の実家は東京都心にあって、実家だけに広さもあって、両親を亡くしたあとにそこに独りで住んでいた。僕の力ではなく部屋の立地と居心地で、友人がきて音楽やココロを語ることもあった。

その部屋を維持できなくなって、多摩の奥地に越してから、ほとんど誰もこなくなった。コロナ禍が追い討ちをかけた。その間、僕は某女子大の心理学研究室のカウンセリングを受けていた。
 厳密には「お悩み相談」。医学的な資格のないポンコツ自称カウンセラーに、その週に起きた困難を話した。それだけでも救われた。しかしカウンセラーさんの事情でキャンセルが増え、ついになんの引き継ぎもなく「お悩み相談」ごと消滅した。

その後転院して、病院の専属のカウンセラーさんにかかるようになった。患者からみてもプロフェッショナルで、カウンセリングを受ける時間が楽しみになった。
 それだけではない。絶望しかなくて存在理由を完全に失っていた僕が、もう少し人生をやってみようかと思えるほどには回復の過程にあった。しかし、そのカウンセラーさんが1年間の産休に入ることになってしまった。病院には別のカウンセラーさんはいない。もちろん子供を授かるのはめでたいことだ。生物の使命は自分のコピーを残すことにある。一方で人間は社会を作り、子供を授かるのではなく社会に貢献する生き方もある。それも素晴らしいことだ。そしてその両方とも、僕はもう叶えることができない。

主治医は信頼できる人物だけれど、よくある5分診察で薬の調節の話だけをする。私的な会話をする相手が、ついにまったくいなくなってしまった。これからどうなるのか想像もつかない。とにかく不安で不安で不安で不安で不安で不安で不安で不安でしょうがない。

11月25日 音楽はなんのために鳴り響きゃいいの
-痩せ細る日本の音楽と、リスナーの耳を育てる話

かなり参ってる。2ヶ月前に1週間動けなくなって、このままでは死ぬと思って意地で通院して病院で倒れた時くらい。カウンセラーさんが3月から1年間の産休に入るのだ。もちろんお子さんができるのはおめでたいことだ。

思い起こされるのは、2014年の菊地成孔さんの言葉だ。「(芸術は)もっと複雑なもの。呪術や美術、文学、感覚的なもの、もっと考えさせるものがあるのに、『元気になりさえすればいい』というのは、文化的には飢餓状態、病なら重症だ。元気づけられたとしても応急処置でしかない」。
 この「複雑さ」という言葉は、単に難解という意味ではない。作品が持つ奥行き、微細さ、文脈、構造、そして聴き手への問いかけ、そうしたもの全部のことだ。それを差し置いて、「元気になれる」「ノリやすい」「すぐわかる」といった単純な快楽だけを求める文化は、一見賑わって見えても、内側から痩せていく。芸術にとって複雑さは「栄養」なのに、それを摂らなくても回ってしまう構造ができあがった時、文化はゆっくりと疲弊する。

TikTokで15秒バズり、そこだけ切り取れば充分に「ヒット」が成立する現状は、その象徴に思える。複雑さを求めないマーケットに、複雑さを作り込む必要も評価もない。だから多くのポップミュージックは、深度を捨てたまま量産される。受け手が変わらなければ、文化は更新されない。
 伊藤結希さんのポスト。「InstagramやTikTokなどのショート動画文化では、最初の3秒が肝心だと言われている。というのも、ユーザーは一瞬でリールを見る・見ないの判断を下すからだ」。

SNSの「3秒で判断」する消費者は、美術や音楽の本質と真っ向から相性が悪い。文脈を伝えることを使命とする文化機関と、短時間で「選別される」アルゴリズム文化はそもそも目的が違う。でも現実には、後者の論理が前者を浸食してる。
 北村紗衣さんがこんなポストをした。鑑賞した作品をつまらなく感じた時に、「作品じたいが面白くないのではなく、『自分に知識がないせいかもしれない』という可能性は認識する必要があると思う」。この態度を取れるかどうかが文化の命運を左右する。なぜなら複雑な作品は往々にして「準備」がなければ届かないからだ。

例えば現代芸術家の奈良美智さんや村上隆さんの、一見ポップな作品の劣悪な贋作が売られてる。オリジナルの「複雑さ」や「深淵さ」に遠く及ばない。これは贋作を売る人が100%悪い。でも贋作を買っちゃう人は、ほんとはなにが欲しかったんだろうね。
 ポピュラーミュージックのチャートに安易な模造品が並ぶのは、バブル崩壊後のCDバブル期に大量流入した「音楽に深い興味のない人たち」がディレクションの中枢にいるせいじゃないかと思う。音楽を聴かず感性のアップデートもせず、過去の成功体験をなぞり続けてる。結果として生まれるのは似た曲の繰り返し、そしてそのゆるやかな劣化だ。粗雑な模倣品がコピーされてさらなる粗雑な模倣品を生む。

「知識は要らない」「直感だけで楽しめる」作り方は、複雑さを切り落とす方向に働く。鑑賞者が学ばない方が、ビジネスとしてはチョロいのだ。渡部宏樹さんがこんなポストをした。
 「鑑賞に知識や技術が必要ないという甘言が、演者や作り手の人生や物語や感情を消費させるビジネス構造と相性がいいって話だと思う」。「資本が自己増殖するための器としてコンテンツなりエンタメなりが作動するときに一番都合がいいのが、受け手が愚かな消費者であることなわけじゃない?だから私は、知識を学んだり技術を身につけることは鑑賞者の義務と言える部分はあると思う」。

とり・みきさんは彼らしい皮肉でこんなポストをした。「スピーディーなわかりやすさ(危険)が席巻する世の中だからこそわかりにくさを大事にしていきたい」。
 確かにとりさんのマンガにわかりやすい説明のコマはない。それはヌーヴェルバーグ映画でゴダールがしたように。ストーリーも意味もないことも多い。そして数十年後、ふと気づいたりする。とりさんの姿勢も、この文脈の中で腑に落ちる。わかりにくさ=悪ではなく、「複雑さへの入口」だからだ。

本来ポップミュージックは、大衆性と複雑さの間のバランスの中にいた。そこには構造的な美しさも、時間的な展開の快楽も、音色の精密さもある。でも、「短く、わかりやすく、即時的であること」が優先される文化では、その奥行きはない。だからこそ、今あえて「深さ」を提示する意味があるんじゃないの。
 それは前時代的な精神論ではなく、文化が飢餓状態に陥らないための最低限の防衛策だ。受け手側の態度が変われば、ポップスも変わる。複雑さを拒まず、知る努力を放棄しないこと。「わからない」と感じた時、それを「作品のせい」にしないこと。その小さな姿勢の違いが、文化の未来に静かに影響を与える。

大衆音楽が再び豊かさを取り戻すとしたら、その始まりはリスナーが「耳を育てる」という地味な行為なのかもしれない。



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